メモと呼ぶには長すぎる

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他人の死への向き合い方

人が死んだときにどうすればいいのかわからなくなる。 

ぼくがいま、死について思うこと

ぼくがいま、死について思うこと

 
死について考える (光文社文庫)

死について考える (光文社文庫)

 

 

 

 

友人が若くして死んでしまうことが今までぼくの人生にたくさんあって、それとは別に親戚がなくなってしまうことだってあった。どちらにも同じ感情が発生するわけではないから、両方一つ一つ丁寧に紐解いていきたいんだけど、書きたいことが先行してあべこべでまとまりのない文章になってしまうのは先に謝罪しておく。ごめんなさい。それでも真剣に書くから読んでほしい。

 

友人の死に対する感情の正解が欲しい

友人が死んで、ぼくたちはどう思えばいいんだろうか。かわいそう、とか死んだお前の分まで俺が生きていく、とか思えばいいのかな。いろいろな死への向き合い方があると思うけど、ぼくはどれを選べば相手にとって、遺族にとって失礼ではない方法となるのかわからずにいる。

死んでしまった友人はそこで人生が終わり、もう二度とその人生の時間の針は進まない。心臓は電池でしかなくて脳がココロだと思っているから、死ぬということはつまり電池切れでしかないんだと思う。心不全で若くして亡くなった友達は前世で、何の業があって電池が切れてしまったのかって思う。死にたくても死ねないぼくが生きていて、生きられなかった友人はどうして死んでしまったのか、神様の不公平さってのはこういうところに如実に表れていくんだろう。

たくさんの歌手がそういう気持ちの代弁者を名乗り、歌にしていて(日本だけかもしれないけど)飽和状態だ。死への向き合い方なら、ぼくはamazarashiが自分の思考回路に近いものを感じるかな。「ひろ」とか「千年幸福論」とかすごく好きだし、たぶん影響されている部分も大きいと思う。

他人の死って一概言えども、親しさが違うし、その親交状況で悲しみの深さは違うはず。それでも必ず僕らは立ち上がっていつもの日常に戻るしかない。そこが悲しくなってしまう。死人に口なし、なんともいえないけど死んでしまったことに対する悲しみが立ち直れるほどの悲しみでしかないことがなぜだか悲しくなってしまう。矛盾しているのはわかってるし、じゃあどうしたらいいかっていえば、悲しみのあまり精神不安定とか後追い自殺としかない。もしもぼくが死んで悲しむ人がいたり、ぼくのために死んでくれる人がいてくれたらぼくは歓喜してしまうだろう。

きっと立ち直ってしまう自分が嫌なんだろうな。死んだ人が居なくても回り続ける世界が嫌だ。僕たちは世界から見れば全体を狂わせるほどの大きな歯車ではなく、無くても構わない程度の存在なんだって思ってしまうと余計哀しくなる。実際にはそんな人、どっかの新興宗教の教祖様くらいしかいないんだけどさ・・・。

 

赤の他人の死は悲しまなくていいのか

知人の死とは別に、関係ない人の死に対するモヤモヤも話す。

たとえば事故死とかワイドショーを騒がすような悲惨な殺人事件とか、そういうものからどうしても目をそらしてしまう。自分には関係ないから悲しくなることがない、ってのは自分の心が空っぽのような気がして悲しくなる。ぼくの大切な人じゃなくてよかったって思ってしまう。浅ましさが露呈するから嫌だ。自分の知り合いの死に対する心の痛め方を悩んでいるくせに、他人の死には無関心。こんなに浅ましい人間なのかって自己嫌悪に至る。難しく考える必要がないのかもしれないけど、それでも、それでも、ぼくは自分なりに納得した答えを出そうとする。それが自分の首を絞めることになっているのはわかっているのに。

電車の脱線事故が起こったって 夕方のテレビニュースでやっている 亡くなった人の家族や恋人の 悲しみに目を背けてしまう 「千年幸福論/amazarashi」

 

千年幸福論

千年幸福論

 

 

 どうしてこの人は僕の気持ちがわかるんだろうか、って感銘を受けた曲だ。

数秒に一人死んで生まれてを繰り返しているのに、そのすべてに悲しみや喜びを表していたらぼくは破たんするだろうし神にでもならなきゃきっと無理だ。どこかで割り切る必要が出てくる。割り切りたいと思ったことは一度もないけど、いつもこんな事を考えてしまう。

あなたが居なくなっても生きるぼくを 許せないと言ったら笑うでしょうか?  ぼくがいなくても生きていくあなたを「悲しい」と言ってはいけませんか?「千年幸福論/amazarashi」

 本当にこれ。互いに依存し合ってる関係であってほしい。訃報を聞いて悲しみに明け暮れることがあっても、そのクシャクシャの泣き顔はいずれ笑顔を取り戻すことになる。それがまるで死んだ自分のことなんて忘れてしまっているかのようでさびしくなる。

かといってどれくらい引きずっていればいいのかって考えればわからない。他人の死で自分の人生まで狂わされるのはみんな嫌なんだろう、当たり前だ。そんな思想はメンヘラ特有のものに成り下がっているのかもしれない。みんな自分が大好きなんだ。いくら恋人だとか家族だとか言っても所詮自分が一番。そういう人間の本質のようなものがとても怖い。なにか禍々しい狂気すら感じる。普段見せている他人への優しさは極限状態では存在しないものなんだって考えれば人間は恐ろしい。

苦労してその結果死んだのかもしれないけど、たとえそうだとしても死んだら終わりでしかなくて、生きている僕から見たらこれから先苦労しなくて済んでうらやましいなあと勝手ながら僕は思うんです。

死ぬまで死ぬな

自殺する勇気なんてない方がいいに決まってる。そんなの勇気なんて言わない。ただの馬鹿だ。ただし自殺する奴はこの限りではない。自殺志願者に対しては、自分勝手に死ぬんじゃねーよ!って思うけど、それ以外の避けられない死ならば、致し方がない。

どうせ生きるんだったら生きたいように生きるべきだけど、死にたいように死ねとは言わない。死ぬ時まで死ぬな。そうでなければ、今まで自分より先に死んでいった人たちに示しがつかないと思わないだろうか。自分の周りの知人が死ねば死ぬほど、ぼくは自分の命に重みが増していくような感覚になる。

命は始まった時からゆっくり終わっていくなんて信じないぼくが生きる今日は もっと生きたかった誰かの明日かもしれないから 」さよなら/かりゆし58

 

さよなら

さよなら

 

 

 かりゆし58の「さよなら」のワンフレーズ。このフレーズじゃないけど、やっぱり死にたくても死ねないぼく達は生きたくても生きられなかった人の願いや想いを背負い込んで歩んでいくしかないと思う。

 

故人にとって自分はどれだけの存在だったのか

葬式とかお通夜ってどこから出ていい境界線なんだろう。行って迷惑がられたり親族の悲しみにズカズカと土足で踏み込むことだけはしたくないよね。行って迷惑がられても、行こうとした意志表示は相手にとって悪いものではないのかもしれない。たとえばクラスメイトではないけど、学年が一緒くらいの知人の葬式に参列するのはどうなんだろうって小学生のころからずっと考えていた。学年全員でいくのは義務感のような感じがして、心ここに非ずの形式的なのになっていたら親族も嫌だろうし、希望者だけっていうのもまた、希望するという意志表示をどの程度仲良かったらして良いものなのかわからない。これもまた自分の劣等感やネガティブ思考がそういう思考に達させるのだろうなってつくづく思う。そんな回りくどく考えず直感で葬式に参列して供養したいと思えばすればいいだけなんだろうけどな、どうも小難しく考えてしまう。逆にそれが相手に一番失礼なのかもしれない。ふるまい方を考えるというのは、礼儀作法とは別に相手の顔色をうかがって行動することのようにも思えてしまう。

死んでしまった友人への思いという点で、思い出した曲がまた一曲あった。

amazarashiの「悲しき思い出」って曲の中に

才能あるのに死んでしまった仲間 今でも遠くで頑張る友達 「悲しき思い出/amazarashi」

 

千年幸福論

千年幸福論

 

 

 

ってのがある。若くして死んでしまった人には将来への無限の可能性が消えずに残っている。成功も失敗もせず止まった時間は決して失敗に進むことを選ばず、成功の夢に昇華させられるんだろう。美化されたといっても良いけど、若くして死んだんだからそれくらい許されて当然なのかもしれない。これから苦悩を味わうくらいなら結果が出る前に死んだ方がいいのかな、なんて考えてしまうのはごく自然なことなんだきっと。人生ギャンブルみたいなものだ、山あり谷ありでうまく帳尻があってる、なんてのはクソみたいなウソでしかない。ぼくたちはなんで生きているんだろうか。それを考えて答えが出せる人はいいけど、きっと答えが出せない人の方が今の世の中にたくさんいるはずだ。

そういう人たちに救いになるような言葉や人が現れればいいと思う。ぼくはamazarashiというバンドに救われた。音楽でも文章でもなんでもいい自分の中で留めておけるカタチとしての文章のもつ力は大きい。落伍者になって読書にふけるようになってぼくを救ってくれた言葉はたくさんあったなあって今振り返ってしみじみ思う。

死が増える中で自分なりの答えを出していかなきゃいけない

年を取ればとるほど周囲に死は増える一方だ。もう少しうまい付き合い方を考えていかなければならないと思う。こんなことにまで自分が不器用だとは思わなかった。不器用であることが絶対悪では無いとも思うけど。最後に言わせてほしい。どうか命を全うせずに死ぬのはやめてほしい。ほかの人が何と言おうと、ぼくはあなたの死を悲しむから。死ぬまで死なないでください。お願いします。(おしまい)

 

この記事は過去の記事を移転させたものです。本ブログはがんばれなんて言えないの倉庫ログです。