メモと呼ぶには長すぎる

過去記事やメモなど、雑多な数々

幸せとはなんだろう-「自虐家のアリー」

 

季節は次々死んでいく(期間生産限定アニメ盤)

季節は次々死んでいく(期間生産限定アニメ盤)

 

 

 

新アルバムのレビューを兼ねたamazarashiの記事を書いたり、ちょくちょく記事に名前を挙げるamazarashiというバンドがいる。ぼくがこのブログで総力をあげてプッシュしているバンドだ。ひっそりと活動してオリコン上位やメディアに紹介されることはほとんどなかった知る人ぞ知るバンドだったと思う。それが今期のアニメ「東京喰種√A」のED曲にタイアップされて初のシングルを出すこととなり、アニメの人気やMVでのアニメの世界観を再現してみたりといろいろな相乗効果もあって、有線放送やTVなどでも曲が流れることが多くなり、1ファンとして嬉しいやら悲しいやらというお決まりの感情炸裂しているのです。

結果からいうと、そのシングルがすごく良かった。いつものポエトリーリーディングもぶっこんでくるあたりamazarashiらしいのはいつものことで、何よりタイアップしている「季節は次々死んでいく」ではなく、「自虐家のアリー」がamazarashiを象徴する曲で最高だった。

一般常識や社会に囚われず、自分自身に囚われる歪んだ価値観の歌がamazarashiらしいとぼくは勝手に思っていて、それは「少年少女」や「爆弾の作り方」とか初期の頃に前面に出てた。千年幸福論がギリギリでそこからは次第と前向きの歌の片鱗や伏線が見え隠れして、歌自体として前向きになってしまった「あんたへ」でその面影は影に落ちてしまったと思った。しかしここでまた息を吹き返してきて、信じてきたものが報われたようなそんな気分。

「自虐家のアリー」の話に戻ろう。

自虐家のアリーに僕が感じた良さ?や分析?を綴る。

お前なんかどこか消えちまえと 言われた時初めて気付いた 行きたい場所なんて何処にもない ここに居させてと泣き喚いた

行きたい場所なんてどこにもない。そう感じるしかないアリーは本当に狭い世界で生きてきてそれが幸せかどうかなんて他人にどう思われているかを考えることはないし、自分の価値観で判断するしかないし、その判断が正義であり規律になる。

アリーが苦しんだりすることが第三者から見れば変哲なことで何をそんなにちっぽけなことで悩んでいるのか?って思うけど、それがamazarashiの描いてきた正しさのようなものだと勝手に感じてる。

自分にとってかけがえのないものが周囲からはゴミ屑と変わらない、まるで特別なことのように思えるかもしれないけど実際にはそんなことばかり。差異が小さいから気にならないだけで結局は価値観の違いで違った見方が出来るものばかり。

幸せってなんだろう。

アリーにとって幸せってのはどんなにDVで虐められても母親に愛されることなんだろう。本人にしかわからない価値観を周りが完全に理解することなんてできない。本人がよければそれでいいのか、それとも周りからみて不幸せだったら止めさせるべきなのか。こればかりはわからない。本人にとって幸せと周囲から見ての不幸せの先にいったい何の違いがあるというのか。受け取り方なんだから多分どの道を歩いても変わらない。誰だってアリーと同じだ。それが周りをもってして矯正させなくちゃいけないと思わせる部位かどうかってだけ。

依存症を治すことは本人にとって幸せか不幸せか。快楽(幸せ)を求めるのが人生ならば依存性がむしろ善ではないのか。間違った幸せなんてない。あるとするならば、それはエゴだ。周りが見えないほどの依存度ならば依存症患者の中に哀しみもないはず。依存している限り幸せならそれがたとえ命を短くしようと悪いことではないと思ってしまう。周りが押し付ける幸せって本当に幸せなのかな。日々そう感じる。そういった意味では、愛を求めて苦しむアリーは周りからハイリスクローリターンでもアリーにとってはハイリターンだ。自分の居場所が他にはないって思ってしまう彼女にとって家は一番の居場所。家に依存している。被虐者である内が幸せを追い求めるという点では一番人生らしいのかもしれない。

時々とても優しく笑う、それが母の本当の姿

そう信じていなきゃやっていられない。でもアリーが信じているうちは真実である。他人が否定してもアリーが肯定し続ければそれは真実だ。職業でも生き方でも自分自身が決めたことで最後は落ち着くのだから、人として自分が信じてあげればそれでいいのだと思う。

愛されていないって 疑った私を許して 何もいらないよ これが最後のわがまま

アリーが生きていく上で人並みの幸せを味わえないなんて思わない。人並みの幸せって一体なんだよ。レール引かれて走ってるだけのテンプレートな生き方のことだろう。それらに慣れて生きてきたから無意識のうちに価値観も矯正されている。大多数の人がそう生きているのだから当たり前なだけでそれが真理ではない。ノーマルとアブノーマルのような関係が分かりやすい。「正常」と「異常」と日本語に訳してしまった先人が誤りだったんだと思う。「普通」と「普通じゃない」と訳すべきだった。アブノーマルは「異常」でも「悪い事」でもないのだから。ここで、異常と騒ぎ立てるようにアリーの幸せを不幸せだとなじることは真に正しいことなのか?そういう考え方をしていると混乱してくるけど、アリーのような生き方でぼくは十分だ。

他に干渉されて汚染される事のない環境。汚染という言葉は不適切かもしれない。本当はいいことかもしれない。それでも出会わなければいい。今の自分をより良く幸せにする方法なんて自分の目の前に現れなければいい。現状で満足できないような社会になっているから生きづらい。アリーのように目的が唯一つであればどんなに生きやすいことか。こんな生き方は人間的ではない、動物的だと揶揄されるかもしれないが、人間的である必要なんてどこにもない。人間的であることが正義とも思わないし、自分の感性がそれで成立すればいいのだから。

アリーが羨ましくもあり、アリーからしたら羨まれるかもしれない。ないものねだり、贅沢病なのかもしれないけど、この作られた世界に憧れを抱いてしまう。アリーは幸せだ、ぼくがとやかく言うことではない。ぼくも波の隨に願おう、あの海と一つになれたら。おしまい。

これだよ、ぼくが求めていたamazarashiってやつは!
これだよ、ぼくが求めていたamazarashiってやつは!