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死ぬ理由と今日ー「僕が死のうと思ったのは/中島美嘉」

 

僕が死のうと思ったのは

僕が死のうと思ったのは

 

 

 

 「僕が死のうと思ったのは」という楽曲は以前秋田ひろむから中島美嘉に提供されたもので、中島美嘉にとって久しぶりの話題作ということでいろんなところで目にするようになったとき、イメージがガラッと変わったと思ったら、どこかで聞き覚えのある言い回しで、調べてみたらまさかというか、やっぱり秋田ひろむだったわけで。前情報なしにしてもやはり秋田節というものはわかりやすいと再確認させられた一件だった。

このシングルには、「僕が死のうと思ったのは」と「Today」を含む3曲が収録されていて、これらは秋田ひろむによる楽曲提供。なんていうか、ベクトルが違うように見えるけど本質は変わらないので、癖になるというかこのシングルで秋田ひろむが堪能できるといっても過言ではない、この振り幅が好きだった思い出。

どちらも大好きな曲で、歌詞にも触れておきたい、そうなると新しいアルバムが良曲揃いだったら何万文字になってしまうんだよ!って感じなのであらかじめ直前記事と題して既出の「僕が死のうと思ったのは」については掘り下げておきたい。最後に、秋田ひろむはむしろシングルをこれからもたくさん出していくべきだと思う。だって、今まで出したシングルどれもカップリング曲が秀逸すぎてやばいし、っていうかシングルの曲構成がすごく上手。買ってよかった、また次も買おうってamazarashiが好きな人間なら誰しもが思うような組み合わせなんですもの。それはこの中島美嘉へのシングルにも如実に表れていると思うし、秋田ひろむさん、これからもシングルをドシドシ出していってください。

 

 

僕が死のうと思ったのは

 タイトルがすべてを物語っているのだけど、死についてド直球に触れていくamazarashiらしさ全開なスタイル。中島美嘉ファンがこのamazarashiからの楽曲提供の背景を知らなければ、どうしたの?病んだの?って心配するくらいのレベルだったと思う。

でも、この曲森山直太朗の「生きてることが辛いなら」と一緒で最後には生きる希望を見出しているし、そういう意味でも最後まで聴いてもらいたい曲、聴かなきゃいけない曲。最後まで聴くことを強制する音楽が素晴らしいものかどうかの議論はここでは置いておきます。「生きてることが辛いなら」があれほど叩かれていたのに、同じようにコンビニでamazarashiが流されても特に何とも言われなかったのはやはりイメージが森山直太朗にとってポジティヴだったということかな。「生きてることが辛いなら」が、いっそ死ねばいいと切り捨てている歌詞が引っかかっただけなのかな。自殺願望については気にも留めず、自殺幇助については目くじら立てて怒る、はてはて、これまた酷い世界なのではないかって思いますけどね。話が逸れてしまった、歌詞に移ろう。

 僕が死のうと思ったのは ウミネコが桟橋で鳴いたから
波の随意に浮かんで消える 過去も啄ばんで飛んでいけ
僕が死のうと思ったのは 誕生日に杏の花が咲いたから
その木漏れ日でうたた寝したら 虫の死骸と土になれるかな

 どれも抒情的でamazarasiらしい。ちなみに杏の花言葉「臆病な愛」「乙女のはにかみ」「疑い」「疑惑」。もしかしたら、疑心暗鬼になるトラウマを抱えてしまったのかもしれない。

死ぬことに理由なんてない、ぼくらの人生がウミネコのエサになったり、虫の死骸と一緒に土に還ってバクテリア分解されてルーティンになるのは、自然と一緒になりたいってことを意味しているのか。

ちっぽけな存在なぼくが自然に組み込まれてるという願いは割と存在していて、ぼくも死んだら鳥葬してもらいたかったりする。

今日はまるで昨日みたいだ 明日を変えるなら今日を変えなきゃ
分かってる 分かってる けれど 

 ぼくもよくこの手の考えに至るけど結局変わらない、弱い人間だといつも思いつつ、次につなげることができずにいる。B面の歌「Today」に少し触れるような内容だけど、これはわざと意識しているのか、それとも秋田ひろむワールドにはよく出てくるだけということなのか。

僕が死のうと思ったのは 心が空っぽになったから
満たされないと泣いているのは きっと満たされたいと願うから 

 この考え方は割とamazarashiの世界観によく登場する。満たされないのは満たされたいと願うからっていうのは「エンディングテーマ」にも似たような歌詞が出てくる。

(満たされていたいっていつも思うけど、満たされていないからこその願う力 腹が減ってる時の食欲みたいなもの )

 

ohda-amazarashi.hatenablog.jp

 

僕が死のうと思ったのは 靴紐が解けたから
結びなおすのは苦手なんだよ 人との繋がりもまた然り
僕が死のうと思ったのは 少年が僕を見つめていたから
ベッドの上で土下座してるよ あの日の僕にごめんなさいと

 人とのかかわりをよく靴ひもに形容することがあるけど、靴ひものように簡単にほどけてしまうものが人間関係だと思う。面倒臭さや煩わしさを抱えていかなくちゃいけないのだけど、それに耐えられない人がこの世の中には確実にいる。ベッドの上で土下座する気持ち、すごくわかる。ベッドの上でしか土下座できないんだけど、土下座したくはなるの。ここで彼がなんとなく引きこもりっぽいことがわかってくる。

パソコンの薄明かり 上階の部屋の生活音
インターフォンのチャイムの音 耳を塞ぐ鳥かごの少年
見えない敵と戦ってる 六畳一間のドンキホーテ
ゴールはどうせ醜いものさ 

引きこもって外界と交信を遮断しているつもりでも、パソコンは繋がっている、弱者である彼が甘ったれた生活するためには便利な社会に身を置かなければならない。隣人は当たり前にいるし、生活するうえで光熱費や督促状、はたまた友人や家族から荷物が届いたりする。結局一人ぼっちでいられる場所なんてどこにもない。だけど、それらに目を背けて聞こえないふりして、戦ってるつもり。そんな滑稽なドンキホーテは六畳一間というもの凄く小さな世界にいる。ゴールが醜いかどうかは逃げ出した彼には見る術がないから、「どうせ」なんて言葉が付いて出るのだろう。

愛されたいと泣いているのは 人の温もりを知ってしまったから 

 自虐家のアリーに通じるものがある気がする。温もりは果たして知った方が良かったのか知らなかった方が良かったのか。

死ぬことばかり考えてしまうのは きっと生きる事に真面目すぎるから

生きることに真面目だから鬱病になる人が多い。というか、真面目すぎることが報われないような人生は嫌だけど、何事にも適度がある。死ぬことを考えてしまうのに免罪符が欲しいというか、真面目すぎるから仕方ないという赦しが欲しいのかもしれない。

僕が死のうと思ったのは まだあなたに出会ってなかったから
あなたのような人が生まれた 世界を少し好きになったよ
あなたのような人が生きてる 世界に少し期待するよ

あなたさえいればそれでいいと思えるような人に出会えたなら、主人公はきっとどうにかなる。幸せになれる。そう確信して、ぼくはこの歌をハッピーエンドだと捉えたい。

 

Today

「僕が死のうと思ったのは」とは打って変わってアップテンポな曲に。Todayというタイトルが表すように今日について。今日ってなんだろう、改めて考えてみてほしい。

くだらない くだらないって不貞腐れてばっか
投げやりな毎日が 道端で転がってら 鳩も食いつきやしない 

 何もかもがくだらなく見えるときがあって、だけど一番くだらないのはそんな自分自身だったりする。投げやりに生きている人生というのは、何も考えてないように啄んでいるあの鳩たちにとってすら不必要なものなのだろう。

自分に嘘をついて 理想を捻じ曲げて
手に出来た夢なんてさ 一つもないよ 

 何かを成し遂げるには自分の観念にも通ずるものがなくてはならない。自分の中で納得できていないのに成功するなんて有り得ない。たとえ成功してもそれは自分の力なのかと疑わなくてはならないもので、やはり自分の夢は自分の信念をどういう形であれ貫かなければならないと思う。

有限 つまり僕は明日を信じないよ
だって今日が最後だとしたなら 後悔ばかりの人生です
だから僕は今日を投げ打って でかい理想に張って 勝って
笑って死にたいんだ それだけの価値の今日だ 

 地球最後の日に何をする?そんな陳腐な質問に今まで生きていたら必ず一度は遭遇することがあっただろう。最後の日だから、と一日を切りぬくのではなく、今日で終わってしまったら、そう考えてみたら自分の人生に何点をつけることができるだろうか。今まで悔いのない人生を送ってきただろうか。輪廻転生があるとしても、僕が僕として生きるこの人生は一度きりだ。やりたいようにやるべきだ、と声を出して言いたい。つまり有限。

幾つの分かれ道 幾つの決意 くぐり抜けて
ここに流れ着いたんだろう 思い出してみるんだよ
選んだ道の数だけ 覚悟や別れがあったんだ
そしてそれは今も僕の 背中に重く圧し掛かる 

 人生とは分岐の連続で、それを毎回選ばなければならない。選択するということは人生なのかもしれない。選ぶたびに意識しようがしまいが、必ず責任というものが発生していて、それがぼくらを形成している。それは果たして重荷なのかどうかはわからないけど忘れてはいけないものの一つではある気がする。

有限 つまり僕は過去を信じないよ
だって今日と昨日の境目なんて 実は誰かが決めたもんです
だから生きている限り続く 僕の物語にいつだって
燃え尽きたいな それだけの意味の今日だ

 時間という概念は絶対的なものであることは確かだけど、それらの境目は人為的に決められたもので、固定観念の一種と捉えることもできる。確かに毎日が代わる代わる過ぎ去っていくように感じるけど、それは大局的な観点から見れば連続する一本の線の上でしかなくて、そこに詳しく区切ろうとしてるだけ。ぼくという人生は今日も昨日もなく一直線に続いていく。今日という言葉が持つ意味なんてものは本当にちっぽけでしかない。

ひたむきに生きる君の今日も 投げやりに生きる僕の今日も
楽しくて名残惜しい今日も 悲しくてやりきれない今日も
夕立ちが去った街の今日も 被弾した戦場の今日も
誰かが生きられなかった今日も 誰かがあんなに望んだ今日も
全部同じ重さで 全部同じ尺度で 今僕らの目の前にあるよ
今僕らは今日を生きてるよ

同じ今日でも沢山の種類がある。楽しい今日も悲しい今日だってある。平和な今日の裏で戦争中の今日もある。ぼくが死にたいと思ってる今日が誰かの生きたかった今日かもしれない。だけど、それらは結局今日という言葉にしてみたらおんなじなんだ。すべて等しく僕らの前に今日として在り続ける。ぼくらはどうやったって今日を生きていくしかない。

 有限 つまりどんな今日も 限りある一生の一ページ
だとしたなら読み飛ばしてもいい今日はないです
だから僕は描き直すんだ 新しい僕等の第二章
ちぐはぐでも そんなもんだろ僕の一生
それだけのものだよ

 今日という日が連続するということはたとえそれが誰かに決められた尺度であったとしても区切りの一つであるから、人生という大きな本を作るとき一ページとして構成要素になる。読み飛ばしていいような今日がない、なんて言葉が、くだらない、くだらない、と毎日を投げやりに過ごしていた彼の口から出るということは心境の変化を表しているといっていいだろう。だけど、過ぎ去った過去はそこに無慈悲にも存在している。それを描き直すとしても確実に以前のような綺麗なままであるわけない。ちぐはぐになってしまうのは必然だけど、ぼくの人生らしくていいじゃないか、なんてあきらめ半分奮起している主人公に共感してみたり。

 

この二曲ともすごく好きな曲で、もう引用し放題で、困っちゃったんだけど、したいところは遠慮なく全部させてもらいました。以前アコースティックで秋田ひろむVerが公開されたんだけど、やっぱりしっかりとレコーディングしてほしいなあって思ってたらやっとセルフカバーされて収録されるって聞いてもうワクワクが止まらなかったです。今までは新アルバムの曲の公開っていうのも小出しにしていたし、まぁシングルが多かったときの世界収束二一一六は別だと思いますけど...。今回はミニアルバムということもあって先行公開も少なめだったし、既出の曲だったし、かなり楽しみ。

あと、個人的に「僕が死のうと思ったのは」の歌い方が期待通りというか、素晴らしかったのでうれしかった。ぼくの好きなamazarashiはまだ此処に存在しているんだって確信させられた。明日発売の「虚無病」聞きまくって考えがまとまったら記事にします。その時はよろしくお願いします。その時までさようなら。(おしまい)