希望と絶望、縋るのは仏教かー「虚無病/amazarashi」
発売前日に「僕が死のうと思ったのは」について記事を書いたばかりで、お久しぶりです、とは言うのも少し違う気がするし、かといってこの虚無病についてまるで知らなかったかのようにすっとぼけて事細かに説明する必要もない気がするけど、一応紹介記事みたいなものだし、しっかりとプロセスだけは踏んでおかなくちゃいけないか。
このブログを見てくれている読者にとってはすでに耳タコだとは思うけど、amazarashiというバンドがいる。このミニアルバムにはタイアップは含まれていないから、前作が東京喰種のミーハーホイホイになっていたとしたなら、このアルバムはきっとそのミーハー出身でもなんでもいいから、amazarashiについて好きになった人が手に取ったんだろうと勝手に思っている。
ミニアルバムという形でリリースされるのは「あんたへ」以来なので約3年ぶり。フルアルバムが2連続の発表で、その間には初の試みであるシングルも経ていて、本当に久しぶりな感覚。今回もまたamazarashiファンにとって賛否両論の一枚になっているけど、初めにぼくの感想言っておきます。期待に応えてくれた感じで好きです、全部ひっくるめて好きというほど盲信していないから、否定的な部分もあるにはあるんだけど、ミニアルバムとしての完成度は申し分ないかなと個人的に思います。
フルアルバムは曲数多いし、テーマも似通った曲が多いとハズレとアタリが混在してしまう傾向にあると思うんだけど、ミニアルバムはやっぱり好きなだけ表現できるというか、むしろ小出しにすることで色々とリスナーに勝手に想像で補完してもらうことができるし、良くも悪くもamazarashiらしさがしっかり出てくると思う。
先述の補完という言葉が今回のアルバムでキーワードになっていると感じていて、どれもバックグラウンドにある制作背景や世界観をしっかりと抽出してあげなくちゃならないなって感じ。「風に流離い」で片鱗を見せた後、「スピードと摩擦」で一気に加速した秋田ひろむの歌詞制作における韻を踏む傾向が今回も十分感じ取れる。韻を踏んでいるだけで、意味が分からないような歌詞が見られたときに、ぼくらは自分たちで意味を見出して好意的に解釈していかなければならない。たとえそこに秋田ひろむが深く考えた意志がないとしても。一般に浸透していない専門用語で韻を踏んだりしてしまうと、歌詞がすんなり入ってこない。そんなわけで今回は歌詞の考察をメインに据えて論を展開していこうかなと。いつもと雰囲気が変わってしまう恐れがあって期待に応えられないかもしれない不安で、前置きが長くなってしまった。早速本題に入っていこうと思う。
1.僕が死のうと思ったのは
歌詞に関しては中島美嘉のカバーの方で間に合うと思うので、そちらを参照ください。
気になったのは歌詞が変わっていたこと。
ゴールはどうせ酷いものさ
中島美嘉のカバーでは「酷い」ではなく、「醜い」と歌っていて、虚無病に同梱されていた歌詞カードを見るとしっかりと「酷い」と記載されていたので、間違ったわけではなさそう。以前ニコニコ動画で生放送した時もアコースティックVerで披露していたけど、その時も「酷い」と歌っていた。歌う際にしっくりこなかったのか、はたまた歌詞を制作してから時間が経過して印象が変わったのかもしれない。(しかし、再録アルバムでは歌詞が変わった箇所が見受けられなかったし、もしかすると歌詞を勘違いしてただけで、それを正当化する為に歌詞カードも乗っ取って変えたって可能性が微レ存..?)
2.星々の葬列
一曲目に続いて歌詞に注目していきたい、バラード調の曲。前にも触れたけど、amazarashiは韻を踏み始めてしまって、この曲みたいに全く韻を踏まずに単純に物語調に話を展開していくだけで満足っていうか、むしろこっちを前面に押し出してもらいたい感じすらある。
今でもよく思い出すんだ 昔見た 賑やかな行列
ブラスバンドに鼓笛隊 それはそれは華やかなパレード
白い鳥が雲に混じって 花火が弾けて振り向いた
沢山の人が笑ってた 僕もつられてきっと笑ってた
昔見た楽しい思い出。たくさんあるはずなのに何故これを強く覚えているのか、特に印象に残っているわけでもないのにいつまで経っても忘れない思い出がある。それがぼくにとって何を意味するのかわからないし、それが波風立てずに終わっていくただの思い出であることがなんだか怖くなったりする。思い出の中ではいつまでも幸せな風景が繰り返されていて、現実に引き戻されたときにゾッとする。あのころはよかったなあ、としみじみしてしまう。楽しい思い出はたくさん残していきたい。
暗い海に 君と二人 そんな昔話をしてた
物憂気に星を見ていると こんなおとぎ話を教えてくれたんだ
暗い海に二人で昔話をするという状況、既に何があったんだろうかって気になるところだけど、前の楽しい思い出との対比に目を向けるべきだろう。夜に誰かと昔について話して、物憂げになっているって状況は普通ではない気がする。誰でもいい、夜に、それも海で語り合える友人が欲しい。
笑って 笑って
天の川は星々の葬列
宇宙のパレード 宇宙のパレード
さぞかし大きな星が死んだのでしょう
星がただ偶然にそこに居続けるわけではなく、天の川が、名前まであってあのようにたくさんの星が一つの川のように見えるのは列をなしているから。大きな星が死んだから、みんな葬列している。人間だけじゃない、宇宙だって一つの星のためにあれだけの星が葬列するのだ。そう考えると、なんだかおもしろい。
星たちの光は、地球に届くまでに時間差があって、その光が届くころにはもしかしたら星は死んでいるかもしれない。星は常に光を発しているけど、死ぬ時にも大きな光を伴う。それが地球に届くころにすでに死んでいるくらい遠い距離にある星はとてつもなく大きくなければならなくて、それはペテルギウスくらいしかありえないとか。
父が僕の手を強く引く いつもは無愛想な癖して
あんまり子供みたいだから 僕もはしゃいでる振りをしたんだ
ボロボロのサーカステントは あちこちに穴が空いていて
暗くなると光が漏れた まるで満天の星空みたい
いつもは厳格な父なのに、子供が楽しむような場所なのに、童心に帰って楽しんでいる様子を見ると、自然と自分も楽しくなった気になるというか、小さいころは一緒に楽しんでくれる父親がうれしくて仕方なかった。ぼくもそんな記憶が確かに残っている。サーカスっていうよくわからない得体のしれないモノにはいつでも興奮する。きっと父親もそうだったんだろう。ボロボロなのに賑わってる、個性はあるけど素顔はわからない。綱渡りのような経営だったり、適当な勘定だったり、そういう危うさが見え隠れするところも怖かったりする。そこに興奮した思い出がある。
沢山の人が集まった 静かな黒ずくめの行列
ブラスバンドは来ないけれど 花火ももう上がらないけど
灯りを掲げた行列は 夜空の星の映し鏡
沢山の人が泣いていた 僕もつられてきっと泣いていた
最初の歌詞と対比するような構図で、葬列という歌詞が出てきたり、暗い海で誰かと話すことでなんとなく察することはできたけれど、現実の彼等も同じように葬列する歌だった。
沢山の人は同じように集まったけど、それは決してにぎやかではないし、ブラスバンドも鼓笛隊も花火だって無い。「夜空の星=天の川」であって、空も同じように葬列していて、ぼくたちも果てしない宇宙と一緒なんだ。誰かが泣くから、ぼくも泣く。現実感はないのだろう。
笑って 笑って
天の川は星々の葬列
宇宙のパレード 宇宙のパレード
どこまでも長い行列
そして、この後にこのサビがまた入る。つまり、自分の父親が死んで、それに小さいころの思い出を振り返っていたというわけだ。たくさんの人が泣いてくれて、どこまでも長い行列、天の川の映し鑑のようである父の葬列は、きっとたくさんの人に愛された証拠だ。父もまた大きな星だったのだろう。故人を弔うのに泣いてはいけない、笑って送ってあげよう、とよく言うけれど、どっちが良いのかはぼくにはわからない。泣いても笑ってもいいよ、君が好きにすればいい。泣きたいのに泣けなかったり、笑いたかったのに笑えなかったら、それこそ多分一生心残りになるだろうから。パレードなんだ、パレードだから泣くのは似合わないよ、なんておとぎ話の持つ力をしっかりと表していると思う。おとぎ話ってのはそういう類の話を屈託もない笑顔で言ってくれるようなそんな力があると勝手に思ってる。
たくさん、死をテーマに歌を作るとそれぞれ一つ一つの持つ重さが軽くなるような気持になるけれど、どれも結局虚構なのだろう、って思ってしまうこともあるけど、それでもamazarashiが持つ美しさは損なわれることは無いから、やはりぼくはこういった歌をこれからも聴いていきたい。
3.明日には大人になる君へ
最初聴いて、「ポエジー(ワンルーム叙事詩 収録)」に近い印象を感じた。高音のメロディラインに、言いたいことを目一杯詰め込む感じが凄く似てると想った。このタイプのポエトリーリーディングは凄く好きなので嬉しい。ちなみにこれは秋田日記をポエトリーリーディングにしたものなんだけど、ぼくはそういうバックグラウンドな情報無しで音楽を楽しむべきだと思うので、曲単体で取り扱っていく。
明日には大人になる君へ
距離の最小単位を 時間の最小単位を “私”の最小単位を
細切れになった 映画フィルムの一コマのような静謐な場所で
自覚と無自覚の交差する三叉路で
初秋の風が撫ぜる歩道橋で
そこで待ち合わせしよう
距離、時間、最小単位が存在するものの後に「私」という最小単位が定かではないものをまるで同等の比較できるもののように並べてくる面白さ。最小単位になれば静止画のような時間の停止した私が現れるような気がして、そこに明日大人になる直前を切り取っておきたいような気がして、静謐な場所で自分を見つめ直せるような気がして。
無自覚と自覚の交差する三叉路とは一体何か。ちなみに、三叉路とは、Y字路のような三つ又に分かれた道のことを言う。三叉路と言うから、無自覚と自覚ともう一つ何かがあるような気がしたのだけど、きっとそれは違う。明日大人になることで、無自覚と自覚が一つの新しい私になるのだと思った。
明日には大人になる君へ
私は自死を否定しない 私は孤独を否定しない
私は“私”という定義の領分については懐疑的でありたい
社会における境遇と その惰弱な精神を拠り所にした
“私”と呼ぶには未成熟な自意識を
混同したりはしない
自死も孤独も社会からは一般的に否定されるもので、それを否定するかどうかをあえて言及するのは明日から大人になり社会の一員になるから。私の最小単位について考えるけれど、私がどこからどこまでなのかについては懐疑的である。私とは一体何か、守られている立場(子供)である今の私にとっては未だわからない。そんな子供の考える私なんてものはあまりにも頼りない。まだ私の自意識は未成熟なのだ。
明日には大人になる君へ
これから来る人生の屈辱においては
報復を誓うのも無理はないのかもしれない
しかしながらその痛みが 君の尊厳に値するか知るべきだ
金品目的の窃盗犯は 私の書いた詩の一行だって盗めやしない
私はそれを尊厳と呼ぶ
大人になってたくさん嫌なことに出会う。そして、それらは権力だったり人間関係だったりすべてに報復は叶わないものだろう。痛みが尊厳と見合うかどうか、ただ傷つけられたからとそのすべてに怒り狂っているようでは、大人とは呼べない。無能で阿呆な窃盗を行うことを決めた愚人には盗めないもの、それが尊厳である。耐える痛みがあるということを大人になれば知らなくてはならない。
4.虚無病
表題曲にして、今回のアルバムで一番の難所。先述の韻を踏む歌詞に、加えて秋田ひろむ大好きな専門用語、カタカナ英語の連発で、歌詞全体の意味がとりあえず悲観的な世界観ということだけはわかるけどイマイチすんなりと入ってこない。この歌が今回考察的な記事を書く直接のきっかけ。この曲の背景には宮沢賢治の「春と修羅」の序章にある「わたくしといふ現象は」って詩があると思ってる。仏教用語の多用も宮沢賢治が仏教観を激しく好んだからだろう。あと、最初聴いたとき、ちょっとメロディの移り変わり方が「太陽曰く燃えよカオス」のAメロBメロに通じるものを感じた。全然違うんだけど、なんかふと浮かんだ。・・・どうでもよい話だった、ごめんなさい。
諸行無常から始まり、すぐさま輪廻が出てきて、仏教用語のオンパレードで、秋田ひろむもまた仏教的観念が好きな一人なのかと思った。
輪廻の環状線は未来都市に合わせて、現代的な環状線という言葉と輪廻を輪っかで一括りにして未来感を出していると思うし、環状線はいつも大渋滞というか交通量が多いことから、輪廻が存在し、生と死が繰り返される世界観を表現しているのだろう。
感染 反戦 我に返るも 手遅れ 潜れ 潜れ
オーバーテクノロジーと心中して 生け贄 犠牲 人間性
韻を踏んでいて、意味が限定できなくて、っていうかもしかしたら意味なんてないのかもしれない。テーマに沿った単語を並べているだけかもしれない。しかし、意味はあると確信して自分なりに組み立ててみる。
虚無病に感染してしまって、我に返ったところで既に手遅れ、潜る(表に出ない)しかない、技術に頼ることで人間らしさを代わりに失ってしまった。
未来系の話によくある、テクノロジーが進歩しすぎて人間がやるべきことがなくなってしまった。すべてがロボットに代わることが可能になってしまう。それを利便や革命と呼ぶか、怠惰や悲劇と呼ぶか。
侵入禁止区の春 生命の樹形図
侵入禁止区域にも春はやってくる。荒廃した場所でも季節は同じように存在する。生命は連鎖して、どんな場所にでも因果関係ができて生態系が出来上がる。それは人間の立場だけで考えることの小ささを改めて感じさせられることになる。侵入禁止なんてのも所詮人間が決めたルールであって、自然において侵入禁止なんてものは存在せず特別な場所なんてどこにもない。ルールを決める人間への皮肉も含まれているのかもしれない。
患って列をなせ、弱きブレーメン 人間反対の姿勢を声高に表明
総人類、何らかの病気だろどうせ 欠陥品どものファンファーレ
ブレーメンとは土地の名前だからきっとブレーメンの音楽隊のコトを指すはず。ブレーメンの音楽隊に登場する動物たちは皆人間たちに必要とされなくなった動物たち。つまり社会から必要とされなくなった人間をブレーメンと形容しているのだろう。ブレーメンの音楽隊は「動物から成る=人間反対」なんて表現しているけど、きっとどちらも人間の、同族嫌悪。(弱い)人間による(強い)人間への文句。
「全員何かしら病気を持ってるんだから、おまえらもこっち側だろ?」というようなメッセージ性を感じるし、正常であるものしか許さないくせに、実は自分たちも異常。
レイシストである癖に実は養子等で自分もその差別の矛先の人種だったって笑えそうで笑えない話は定期的に耳にする。民族の誇りや排斥は環境が作り上げた幻想で、結局本質なんて崇高なものは何一つ無い気がする。
欠陥品しかいないのに自らの過ちに気付かず傷を舐め合い、高らかにファンファーレなんて鳴らす。ファンファーレというセレモニー感のある言葉で皮肉を言う辺りにamazarashiらしさを感じる。
ちょっと気になったのが、声高に表明って歌詞を「こわだか」ではなく「こえだか」と歌っていたところ。普通に間違いだと思うから、引っかかってしまった。
夕焼け溺死、滅亡前夜の 緑地公園クレーター跡地で
隣人ですら疑い合うから 争いも致し方ない
夕焼けは沈むように溺れて死んだようにしか見えない滅亡前夜、緑地公園は隕石落下でクレーター跡地に。隣人も疑いあってしまって何も信じられない、常に争い合うそんな未来。何か大きな災厄が降ってきたら、誰も正常ではいられなくなってしまうのは人間の仕方のない部分ではある。未来というものがいつも輝いているわけではない。
ミクロ マクロ 本能のフラクタル ブラフマ 気まずさと迎合
フラクタルとは、幾何学の世界で使われる言葉で、フラクタルと端的に指す場合は幾何学模様の事を指す。幾何学模様ってのは、直感的に似ているなと感じることはできるけど、具体的に証明するのは難しいような模様。自己相似を含んでいることから、鏡としての自己反映としてとらえるのが一番手っ取り早いかもしれない。
ブラフマ(ブラフマー)とは、仏教用語で、説によって色々と違ってくるけど、共通しているのは宇宙の創造を司るということ。仏教において、宇宙の根本原理であるブラフマンを人格神として神格化したのがブラフマーで、ブラフマーというのは「ブラフマン」の男性・単数・主格形で、非人格的な宇宙の根本原理としての中性名詞「ブラフマン」と人格神ブラフマンを区別したい時に用いられる。
小さな観点から大きな観点まで、そして本能の自己反映つまり自意識や、神格である宇宙の創造まで、色々なものすべてが迎合し合う、そんなカオスな未来。
因果交流電燈の曼荼羅 収束するべく いがみ合う
因果交流電燈というのは、先述の「わたくしといふ現象は」という詩に出てくる言葉だと思う。ほかで聞いたことがない。
「わたくしといふ現象は」
わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチですこれらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)後略
大正十三年一月廿日 宮澤賢治
「私」を「有機交流電燈のひとつの青い照明」だと例えていて、「私」は決して電燈ではない。電燈であるのはわたしの身体、やがて失われてしまう照明は生きている間の魂。しかし「発火」していた「ひかり」は保たれる。わたしのからだである電燈は壊れても、新しい電燈は時間の最先端で、次々に生まれる。その電燈に発火した「ひかり」がその都度、魂として「意識」が開き、わたくしという現象が生じる。電球は、その電球の作りが一つひとつが微妙に異なるし、光り方にも差異がある。電球にも個性があるけど、発火自体は等しく同じ現象である。それは人間にも同じことが言えて、今の「私」の体が死んでも、「私」という意識が、いつも時間の最先端で開くのなら、「私」は、新しいからだに合わせた個性を生きることになる。「私」はいつまでも在り続ける。これは輪廻に通じるものだろう。
虚無を感じたなら、それがたとえ虚無じゃないとしてもその人にとっては虚無である。これが虚無病の正体。そして誰かが虚無を感じたら、他の誰かにもある程度共通するものがある。だから感染してしまう。
曼荼羅とは、仏教において、シンボル、文字などを視覚的、象徴的に表したもので、どの曼荼羅にも共通して「複数の要素から成り立っていること。そして、ある法則や意味に従って配置されている。」というのが見受けられる。
因果交流電燈の曼荼羅がいがみ合って収束するということは、因果交流電燈による曼荼羅は互いに関係しあっている複数から成り立つ三次元(人間)が曼荼羅の中で争い合っていることを表していて、収束するということは人間が増えすぎたことに対するアンチで、つまるところ戦争の暗喩なのかもしれない。
ノゲシといえばどこにでも咲く雑草の代表。タンポポのような花を咲かせるしぶとい雑草。ノゲシは葉の形がケシに似ていることからノゲシという風に名づけられたらしい。雑草の名前なんてイチイチ覚えてられないのになぜノゲシだけしっかりと覚えていたのか、それはきっとケシ(麻薬)に見間違えたからだろう。ケシだと思ったらノゲシだった。そんな未来都市の住人の幻覚がノゲシを確認させたんだと妄想してみたりする。
そして、どんな環境でも育つことができるから、シェルターにも自生する。ノゲシが咲くほどシェルターが長い間使われていることも確認できるし、そしてノゲシも食用にできないこともない。つまりまだ飢餓に苦しんではないということも確認できそうだ。
そしてノゲシの花はタンポポのようであるから、きっと絶望の未来都市にも一瞬美しいノゲシの暖色が一瞬の希望のように見えたことだろうとも想像してみたり。
社会性脱ぎ去った我らは動物 北へ北へと頼りなく行軍
あらゆる恐怖症に欠落に躁鬱 失敗作どものファンファーレ
秩序ない社会になり、社会性とおよそ呼べるものを失ってしまったら動物も同然だ。
北へ行軍。行軍するということは戦争をしているし、行軍で北上するとなれば、思い浮かぶは行軍病。様々な疾病が兵士を襲う。負のスパイラルが止まらない。
夢もない 希望もない 目的もない 味方もいない いない いない
人が嫌い 世界嫌い 言葉が嫌い 過去、未来 怖い 怖い 怖い
しっかりと他の言葉は助詞がついているのに「世界嫌い」だけなぜ助詞がつかないのだろうか。何もかも否定しているフレーズに合わせて考えるなら幼児退行のような印象を受ける。思考停止で怖い怖い怖いと連呼している。終焉は近い。
逆上して列をなせ、若きレベルエール 愛された事ないから愛は知らない
総人類、何らかの負い目を背負って 出来損ないどものファンファーレ
レベルエールとは、反逆の雄叫びという意味。逆上している反逆に正当性はあるのか。
愛されたことがないから愛は知らない。怒りしか知らない環境は人をおかしくさせる。そんな世界でいろんな人間が何かしらコンプレックスを抱いて、祝福、歓喜のファンファーレを上げる。それもこれも全部虚無病のせいなのだ。悪いのは彼らじゃない、虚無病だ。虚無病の犠牲者。
5.メーデーメーデー
サビに少し抑揚がついて、曲として成立しているのではないか?むしろポエトリーリーディングとは言えないんじゃないか?なんて一瞬思ったりするけど、やはりポエトリーリーディングで、「冷凍睡眠(あんたへ)」のような中毒性がある気がする。皮肉と毒が曲全体に蔓延している。この曲を最後に持ってきたあたり、amazarashiの方向性は変わっていないんだと思った。
テレビの向こうの多数の犠牲者には祈るのに
この電車を止めた自殺者には舌打ちか
結局、人の死に対して正常な価値観を抱いている自意識も、自分にかかわりがない第三者だからであって、それが自分の人生に何かしらの影響を及ぼしたら、ただの障害に成り下がる。偽善者を垣間見る一面。
少し黙れ喋り過ぎだ
って我慢できず喋り出す自意識が 空白を埋めるな
喋りすぎだ、と喋り出す。前も書いたかもしれないけど、こういう言葉を見ると「価値観を押し付けるな、という価値観の押しつけ」って言葉が毎回浮かぶ。
己を忘却してはいないか?
中古本屋で百円均一のハイデガー
ハイデガーといえば、「存在」とはなにかを探求した哲学者。自意識、己、諸々がしっかりと存在を有しているのか?その存在について論じたハイデガーが用無しのように中古本屋で百円均一という一番安い価格でたたき売られている。なんとまた滑稽な絵だろうか。
向上心や見栄が仲間を遠ざけた 鼻につくと陰口 罵り 嘲り
自分諭す、無になれ 同調圧力、ヒエラルキーの下で
住宅費 頭金 積み立て 鎖に繋がれた飼い犬だと気付いた
喜んでくれた妻の笑顔を裏切れなかった────これは全部想像だ 今日、電車に飛び込んだ男についての
「あした大人になる君へ」の”大人になった君”がこうなっていたら嫌だなあと少し複雑な気持ちになる。しかし想像だ。この想像が果たして誰の視点からの文章なのかはわからない。電車に飛び込んだ男が大人になった君ではないことを祈る。
「自分だけは大丈夫」という確信を この時代に持てるんなら
相当な権力者か馬鹿だ
誰だって安心できる環境ではない現代社会。安定志向が最優先され、年長者に「最近の若者は・・・」って言われるけど、実は安定志向というものが今では目指すべき目標になってしまっている。
僕は人を愛すが、それ以上に人を憎んだ
殺したい奴はいるが、守りたい人もできた
世界を恨む時代は終わった 貸しは返すつもりだが
その期に及んで競い合うつもりか
勝つか負けるか 上か下か そうじゃない 賞金も勲章もない
もはや生存競争だ
なり振り構ってられるか 口を閉ざしてたまるか
どうか生き残ってくれないか
この部分が、たぶん秋田ひろむがこのアルバムで言いたかったことだと思う。世界収束二一一六のインタビューとか、今回の虚無病のインタビューでも言っていたけど、「世界への復讐が終わりつつある」と。死にてえ、死にてえ、と代弁してきたamazarashiが「生き残ってくれないか」なんて言葉をアルバムの最後に歌うのはやはり恣意的な何かがあると思う。
〆
新アルバムがかなり好きな内容で、長々と纏まりのない考察やレビューをしてしまった。amazarashiが変わっただとか、秋田日記や歌詞カードを見れば秋田さんの気持ちはわかるし、それを見ずに知ったような口をきくなとか、いろいろと意見はあるみたいだけど、ぼくはやっぱりそういうバックグラウンドなものはあくまでおまけで、曲単体で完結していなくてはならないと思う。そこで感じ取るものがすべてだし、他で補完できるものがあったとしてもそれが主体となってはいけない気がする。だからamazarashiファンを自称するなら隅から隅まで目を通しとけっていう気持ちはわかるけど、それを曲にまでかぶせてくるのは違う気がする。
そして、曲はリスナーが聴いてどう思うかってのがすべてだから、僕みたいに考察して自分だけの曲解説を持っていいと思うし、わからないところは誰かの意見でもいいから自分のものと混ぜて溶け合わせていくべきだと思う。ぼくのこの考察が正しいかどうかではなくて、自分にとって違和感を感じることがないか、それだけを照らし合わせてもらいたい。いつも言ってるけど、この記事を読んであなたが何かを得られることができたら幸いです。約11000文字、長々とおつきあいありがとうございました。(おしまい)
この記事は過去の記事を移転させたものです。本ブログはがんばれなんて言えないの倉庫ログです。