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名前なんてどうでもいいー「名前/amazarashi」


amazarashi 『名前』Short Version. - YouTube

amazarashi 2nd Single「スピードと摩擦」に収録されているカップリング曲「名前」が僕の好きな曲だったので詳しく掘り下げたいと思う。

 

 

スピードと摩擦(初回生産限定盤)(DVD付)

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 まず、またamazarashiらしい歌だなあって思った。絶対苦悩しているというか、こういうのに考えずにいられない性格なんだろうってことは簡単に想像できるけど、実際歌にしてもらうと、やっぱり秋田ひろむらしい着眼点の歌になっていると思う。

生き方が後ろめたいというか、生きづらい人たちの歌を歌う彼にとって、生きづらさを一つ一つ紐解いていくことが変な話だけどamazarashiのキャリア、歌手生命の第一線を担っている。今回はその生きづらさが「他人から勝手に呼ばれるあだ名(代名詞)」って切り口だと解釈した。

 

人は一人では生きていけない。だからこそ、属す組織の中で名前が発生する。名前は自らを表す冠でしかなく、自分の中身を表す言葉ではない。わかっているけど、自分という個を示す際に、まず使われる言葉が名前。名前に使われる言葉・・・陰口、肩書き...など、自分にとって嬉しくない言葉だってたくさんある。それらに囚われず、自分のやりたいこと、好きなようにやっていいんだっていう応援メッセージも最近のamazarashiらしく含まれているのだけど、ぼくにとって、amazarashiの歌はどん底で投げやりになっている人を励ますようで叱る、そんな歌だと思う時があって、この「名前」も部分部分で捉え方が180度変えることができる歌になっている。

 

好きにやるべきは決して無責任ではない

 どんな風に呼ばれようと 好きにやるべきだと思うよ
君を語る名前が何であろうと 君の行動一つ程には雄弁じゃない

どんなふうに言われたって行動してしまえば、名前なんて行動の前には何の意味も持たない。なんて解釈でいいのかな。

「好きにやるべきだと思うよ」っていろんな意味に捉えることができてしまうから簡単な方へ流れて自分に都合のいい解釈にすることだって可能。好きにやっていいってことは、何をやっても責任が伴わないっていうニュアンスみたいな感じだって含まれてしまう。しかし、そんないろんな意味を含んだ語群を一つの方向に向きなおさせる強制力の強い言葉がのちに歌われる。

 なんだっていいだろ 君のやるべき事をやり遂げてくれよ

 好きにやる=逃げるってことではない。やるべきことのためには好きなやり方でもなんだっていいから完遂することが大事だと。

「他人がどうであろうと自分さえ、ちゃんとしていればいい。するだけのことをすればいい。」武者小路実篤が残した台詞にも同じことがあった。

色々周囲から暴言を吐かれたりして、挫けそうになることは確かにあると思う。それでやるべきことがやれない。つまりは挫折してしまう、ってことが一番の失敗。名前なんて何の意味も持たない、さぁ立ち上がれ!そんな歌にこのフレーズで確立するわけだ。

 

名前に対する自分なりの解決を見つける必要性

肩書きとしての名前はコロコロと入れ替わる。犯罪を犯せば加害者、被れば被害者、そんな風に事象に対して私たちは沢山の名前を受け持つことになる。その名前が社会的にどんな意味を持つのか、いい意味で作用するのか、悪い意味で作用するのか、はたまた作用しない言葉なのか。沢山の名前がありながら、気にする名前と気にならない名前があるのもまた事実。どれも属する組織によって与えられた意味でしかない。固定観念というか、それが通念になっていることに疑問も感じないレベルで浸透している言葉が多くある。それがいったい何であるのかを再認識しろというわけではない。どれかに対して過敏に反応する必要がない、というだけのこと。

自分なりにそれらの名前に対する感情的矛盾などを排斥して落とし前をつけるという対処法とでもいうのだろうか。秋田ひろむは何かしら自分唯一の解決策を講じたのだろう。あなたがまだそれを見つけていないのであれば見つけなければならない。そういう警鐘を歌を通して鳴らしているのかもしれない。

 

YouTubeで公開されているショートバージョンにはこれ以降の歌詞がカットされている。名前という存在証明などを歌っていて好きな締め方をしているので是非とも円盤を買って聴いてもらいたい。以下はYouTube版にはない歌詞カードの一小節達。)

 

 良く言われても悪く言われても
その度、中身が変わる訳じゃないし

 

引鉄になることがあっても自分という本質が変わる訳ではない。いわゆるレッテルやらの類にも通ずる話ではあるけど、自分を忘れなければいいだけ。自分に自信を持ち続けていい。

イムリーな話であれば、清宮が話題だった早実と僕の地元でもある宮城の仙台育英の甲子園での対決を育英が7-0で破った時に、人気や話題性では早実が上だっただけに敵役のようなヒールのようなポジションを背負い込まされた反動もあって、過去に育英の生徒が犯した罪がネットで今更思い出されたかのように晒しあげられ、当事者でない育英現役生がネットで叩かれるということがあって、自分としてはレッテルって怖い、かわいそうとも思いつつも、看板を背負うというのはこういうことでもあるんだよな、って複雑な気持ちになった。東北は陰湿の集まり、とか一体どこからそういった情報がでてくるのだか、根も葉もない暴言を吐かれると、東北人としては怒りが湧いてくる。しかしながら、そんな名前(肩書き)とは裏腹に行動(プレー)でしっかりと観客を沸かせた仙台育英がそのあと、そういった叩かれる光景は小さくなったと感じた。身近に記憶に新しい名前がいかに小さいものかということを感じる機会だったと振り返って思う。

同様のテーマは「無題」にも含まれていて、amazarashiにとって”本質は不変”であることを主張していきたいとも感じる。

変わってくのは いつも風景  ー「無題」

「名前」とは逆からの言い方ではあるが、こう歌っている。押しつぶされそうな感覚に苛まれて、「個」が消え入りそうになってしまう毎日で、自分というものを確立し続けようとする意志の表れなのかもしれない。

 

無題

無題

 

 

 

弱い人への応援歌になっている優しい曲

歌の随所に社会性不安障害、鬱病、などなど心の弱い人間がかかる病気がちりばめられている。心が弱い人間がなる病気っていうのは語弊があるかもしれないけど、それらの病気の人がこういった名前などに敏感に反応してしまう部類の人間であるということは紛れもない事実だと考える。名前なんてなんだっていい、その言葉に救われることがある人がリスナーにいると思う。「あんたへ」のような肯定してくれる優しさのある歌になっている。MVも照明器具を使わず暖かい自然由来の明かるさしか使っていないのも包み込んでくれる優しさを表現する方法の一つだと勝手に思ってる。

 

あんたへ

あんたへ

 

 

一緒に二人三脚してくれるような優しい曲が「名前」だろう。

 「名付けたがり」の事はこの際ほっといて
些細な言葉に傷つくな
君の名前は形容詞
君は君自身を名乗り続けろ

 最後はこう締めくくられてる。名前で右か左か右往左往しているのは本当に時間の無駄だとぼくも感じる。肩書きにプライドを感じる人にはならなくていい。誇りに思える肩書きなんて持っていないのかもしれないけど。肩書きで人のことなんてわからないし、やっぱりいくつになっても、中身で人のことを理解する人間であり続けたい。(おしまい)