メモと呼ぶには長すぎる

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自分の最期にはどんな曲が似合うかー「エンディングテーマ/amazarashi」

「世界収束二一一六」先行シングル第二弾「エンディングテーマ」の話。

 

世界収束二一一六

世界収束二一一六

 

 

 時系列的には「多数決」の考察記事みたいなものの後に投稿される記事にあたるこの記事なんですけど、ぼく個人として「多数決」に感銘を受けなかったというか、否定的な記事を作り上げてしまったので検索エンジンにひっかからなくなるくらいにほとぼりが冷めたら投稿するつもりです。amazarashiファンの方々は必然的にどこかしらクセがあるといいますか、アクが強いので批判的に物事を考える人が多いといいますか、「自分の考え方と違うからってボコボコに叩かない人だけが見てもらいたいです」っていう甘えをこの場を借りて言わせてもらいます。「あんたがどう思おうか知るか!」みたいなブログという感想発表会みたいなところで身もふたもない暴言を浴びせられると、なんでそこまで言われなきゃいけないんだろうかって思う。

当たり障りのない事もしくはあなたに全同意の事しか言うことがゆるされないのか?っていうかあんたが何なんだ?そのdisそのままあなたに返ってくる言葉なのでは?じゃあ貴方の御高説をよろしくお願いします。その考えはさぞかし完成された洗練された文章なんでしょうね。もしも、自分の意見に合わない人だっているでしょうだって人間だもの。みたいなことを宣うのであれば、だからと言って公に相手を侮辱する必要ないんじゃありませんの?社会性欠落してんな!おまえ!匿名だったら何でもいえるからって強気になってんじゃねーぞ!誰かの意見に賛同できなくてもその存在を否定することは不要なんじゃねーのか?そんなに言論パンチしたいなら自分の捉え方2000文字くらいの詳細を記した文章持ってこいや!評論家気取りの相手がいかに不完全かを説く前に自分の不完全さを思い直せ!ばーか!

 

まだ発表されて少ししか経っておらず歌詞が検索に引っかからなかったので、自分で書き起こしました。ぼく自身、歌詞について触れたいとき、目で歌詞を追いながらじゃないとピンと来ないので備忘録的なものです。歌詞をただ書き起こしてるだけなので興味ない人はスルーしてどうぞ。

 

「エンディングテーマ」 歌:amazarashi

こんなに空が青いのはちょっともったいないな 少し曇ってるくらいがちょうどいいよな 真っ白な病室の窓の向こうでは そろそろ桜も咲くんだろうけどな  満たされていたいっていつも思うけど 満たされていないからこその願う力 腹が減ってる時の食欲みたいなもの あなたはどうか大事にしてね 失うことに慣れたりしなかった 最後までぼくは悲しい人間でした だけどそれと引き換えに 僕は願うのです 生きて 生きて 生きていたいよ 僕が死んだら流れ出すエンドロール 僕が主演の青春群像 お世話になった人たちの名前がずらっと並べば 何時間かかるかわからないや そんなこと考えるとちょっと笑えてくるよな だからエンディングテーマはこんなもんだろ 

幼いころ買ってたペットが死んだとき あまりの悲しさに出会わなきゃよかったと思った 手にする喜びと失う悲しみ 天秤にかけるのは馬鹿げたことです 偉そうなことを言ったりしてゴメンな 本当にぼくが言いたいことはつまり 僕の中で生きている僕の愛した者たちみたいに あなたの中で生きていたいよ 僕が死んだら流れ出すエンドロール 人はそれぞれ日常に戻って ふとした時に思い出してほしいけどさ 我ながら名作とは言えないもんな そんなこと考えるとちょっと笑えてくるよな だからエンディングテーマはこんなもんだろ 

失い続けることで何かに必死になれる力が宿るのなら 満たされていないってのは幸せなのかな だとしたら今の僕はきっと幸せなんだな なのに心が痛いよ 涙が止まらないよ 

あなたが死んだら流れ出すエンドロール 僕はきっと脇役だろうな 少しさびしいけれどきっとそれでいいんだ あなたが幸せだった証拠だから 僕が死んだら流れ出すエンドロール あと18小節のエンディングテーマ あなたの胸に焼き付いて消えないような 気の利いた言葉を言いたいんだけど そんなこと考えてたらもう時間か 最後はやっぱり ありがとうかな ありがとう ありがとう 今までありがとう

  

理想郷への憧れが曲へ没入させてくれる 

「エンディングテーマ」はamazarashiの楽曲の中で大きくジャンル分けすると「ひろ」(夕日信仰ヒガシズムに収録)や「ピアノ泥棒」(アノミーに収録)と同じ枠に入る。これらの曲に共通して言えること、それは理想や憧れ、ユートピアのような世界観。実際に生きていたら、これらの曲のような世界で生きていくことは難しい。架空の世界はいろいろと避けられない柵(しがらみ)を全て排斥した世界。この曲で具体例をあげるとするならば、「病に臥せっている人が空の青さに思いを馳せること」や「自分が死んだときにお世話になった人が頭に浮かぶこと」や「誰かの死だけに焦点を当てられる精神状態」など、この社会に揉まれて生きていたらそんなに単純な思考ではいられないと思う。これが正常だと考えられる人ってのは所謂勝ち組もしくは、厭世的すぎて俗世からの一切を断ち切った人しかいないと思う。っていうか、amazarashiの客層って絶対この人たちじゃない。

 

アノミー

アノミー

 

 

大団円みたいな世界観にケッ!って唾吐きかけるようなぼくが、なぜこの曲が好きなのか。それはきっとぼくも「理想郷」にあこがれているからだと思う。こんな風に生きられたらいいなぁという希望。理想を提示している作品に共感できないけれど、この曲に共感できるのは個性が少ないから。登場人物の輪郭をくっきりと見せない。病気も死も人間である以上逃れられない運命であり、病気を患うことも死んでしまうことも個性には含まれない。だから僕の中にスッと入ってくるんだろう。

言い回しは少し違っても言いたいことやテーマは今までの楽曲に通じるものがある。つまりamazarashiは今も同じとこに立っているという事を指す。ありがとう秋田ひろむ。

 

ohda.hatenablog.jp

 以前こんな記事を書いたことがある。amazarashiの変化が少し恐い。「置いていかないで」って思ってしまう。タイアップやライブ出演など露出も注目度も増えて新規ファンも獲得してきたamazarashiがあるべき場所にあるということはとても大切なこと。何よりも大切なことだと思う。感動と涙を誘う「エンディングテーマ」型の曲と毒の強い禍々しさや狂気を含んだ「ムカデ」型の曲と二極化した曲だけでもういいんじゃないか、なんてぼくは思ったりする。たぶんぼくがamazarashiに求めているものってこれだと確信させられた。

「多数決」も「エンディングテーマ」もわかりやすいテーマと歌詞だから、万人受けすると言ったら語弊があるけど、「amazarashiが好きかもしれない」って思い始めた人たちはきっと受け入れてくれる曲。そういった曲を導入として、「スピードと摩擦」(世界収束二一一六にも収録されてるのでアルバム手に入れたら聴いてほしい)や「ムカデ」(0.6と再録版に収録)などにも傾倒してもらえたらぼくは本望だし歓迎する。直接的な表現ではなく回りくどい表現を自分の中で噛み砕いて消化して昇華させる、哲学書みたいな聴き方が好き。皆さんはどんな聴き方が好きですか?(謎の質問)

 

0.6

0.6

 

 

生きるための力について

そろそろいつものぼくのスタイルに戻る。好きなフレーズピックアップしていこう。

 満たされていたいっていつも思うけど 満たされていないからこその願う力 腹が減ってる時の食欲みたいなもの あなたはどうか大事にしてね

 満たされているということはもう満足している、これ以上無いということになる。満たされていないことで生まれる原動力は大事にするべきだと思う。現状維持では無く、上昇志向であるべきだ。お腹一杯になりたいから何かを食べるように、満足したいから発生する頑張る意欲は大事にしたい。

 失うことに慣れたりしなかった 最後までぼくは悲しい人間でした だけどそれと引き換えに 僕は願うのです 生きて 生きて 生きていたいよ 

ここの部分って意味がいろいろと受け取れるんだけど、失うことに慣れず、失うたびに悲しみを味わってきたから、自分の人生を振り返って、悲しみの連続で「悲しい人間」であったということかな。失うことに慣れればどれだけ生きやすいか、そんな風に思うからこそ等価として、神様どうか生きのびることを許してくださいと願うのだろう。生きてを繰り返すことで必死さがより強調される。「失うことに慣れる」とはいいことなのか悪いことなのか。悲しい人間であることは善か悪か。人生ハードモードの方が生きづらさに人間らしさがあってぼくは好きです。でも、当事者はそんなことを考えてる余裕は無いわけで、所詮今のぼくも人生ハードモードを脱している状況ではあると思うんだよね(執筆時)。

 

死を迎えるときについて

 僕が死んだら流れ出すエンドロール 僕が主演の青春群像 お世話になった人たちの名前がずらっと並べば 何時間かかるかわからないや 

個々人の人生を映画のように作品としてとらえる。ちょっと面白いなって思った。お世話になった人たちの名前が何時間もスタッフロールとして流れる主人公の人生は羨ましい。ぼくがエンドロールを流すとしてもきっと何時間もかからないと思うし、お世話になった人なんて数えるほどしかいない。そんな羨ましさが先ほどの「理想郷」なんだよね。この歌は青春群像として作品に仕上がってる時点で既に名作だと思う。

 幼いころ買ってたペットが死んだとき あまりの悲しさに出会わなきゃよかったと思った 手にする喜びと失う悲しみ 天秤にかけるのは馬鹿げたことです

 この部分が一番好きです。出会いと別れを天秤にかけ、悲しむくらいなら要らないなんて悲しすぎる。無から有になって沢山得たものがあるはずなのに、それらをすべて否定することはあまりにも残酷で悲しすぎる。そういう見方をすれば僕のエンドロールもぼくの自意識とは裏腹にお世話になった人たちがたくさんいるんだろうなとも思ったりする。そして次のフレーズはこう続く。

 本当にぼくが言いたいことはつまり 僕の中で生きている僕の愛した者たちみたいに あなたの中で生きていたいよ

あなたが別れを悲しむすべてはあなたの中に生き続ける。誰かの中で自分が生き続けられる、そんな立場であることがどれだけ幸せで本望なことか。

ぼくも1年に1回くらい漠然と「死」について記事を書いているんだけどそれらにこの曲に通じるものがいくつかあるのでよかったら読んでほしい。

 

ohda.hatenablog.jp

 自分の死についての話です。

 

ohda-amazarashi.hatenablog.jp

 他人の死についての話です。

 

 僕が死んだら流れ出すエンドロール 人はそれぞれ日常に戻って ふとした時に思い出してほしいけどさ 我ながら名作とは言えないもんな

上の2つの記事でも触れているけど、誰かに死んだあと思い出してもらえるような人生、人間になりたいなっていつも思う。

 「この世界にあるものすべて本当は夢だったりして、自分は寝ているだけで起きたら別世界。」とか「自分を主人公としたバーチャルリアリティ空間の中で自分が死んだらこの世界はすべて同時消滅する」とかさ、考えたことないかな。ぼくは今になっても結構こういうこと考えたりして、自分が死にたくなった時は自然とこういう仮説(っていうか妄想)をすんなりと受け入れて死が怖くなくなることがよくある ー(死にたくても死ねないより)

ぼくの過去記事からの引用だけど、このエンドロールって考え方この自分が死んだらその時点で世界終了っていうぼくの考え方に通じるものがあると思う。自分にとって自分の人生が終わった後の世界は無だし興味がない、というか興味が発生しない、だって死んでるんだもの。そういう意味ではエンドロールが終わり他人にとっては上映後に日常に戻る訳なんだけど、主人公である自分にとってはそのエンドロールが本当に最後だから妙にしっくりくるんだよなあ。

 

失い続けることで何かに必死になれる力が宿るのなら 満たされていないってのは幸せなのかな だとしたら今の僕はきっと幸せなんだな なのに心が痛いよ 涙が止まらないよ

覚せい剤や麻薬で摂取した時は満足で何もやる気が起きないように、満たされていないことは動き出さないことよりかはマシ、失わないための原動力になる、つまりは幸せなのかもしれない。そんな風に考えればぼくはきっと幸せなはずなのになんでだろうか、悲しみが同居している。誰かの幸せと自分の幸せを一緒くたにすることは難しい

この曲がエンディングテーマだということ

サビの最後に「だからエンディングテーマはこんなもんだろ」って締めてるのだけど、この見解としてエンディングテーマが別に存在してそいてそれを指しながら歌っているというのと、この曲自体がエンディングテーマであるという2通りの捉え方ができる。どっちなんだろうな~って思って聴いてたら最後の「あと18小節のエンディングテーマ」って部分で後者だということがはっきりとわかる。

18小節って具体的な単語が出てきて「ピアノ泥棒」におけるニ長調みたいなものかなって考えたりもしたけど、楽譜を見ていないから間違っているかもしれないがこの曲の終わりまでの小節の数と判断した。18小節っていうのは大体ワンフレーズらしい。最後のワンフレーズでありがとうと締めくくってることと合わせてもこの考え方が一番しっくりくる。

 あなたの胸に焼き付いて消えないような 気の利いた言葉を言いたいんだけど そんなこと考えてたらもう時間か 最後はやっぱり ありがとうかな ありがとう ありがとう 今までありがとう 

最後もやっぱり「理想」になっている。最後の言葉に「ありがとう」を選ぶことが難しいことだとぼくは思う。でも実際のところ、死を目の前にして感謝などの単純な感情しか生まれない気もする。単純な感情の中でも、いろいろあったけどやっぱりありがとう、そんな風にぼくも思えたらいいな。どんなキザな言葉よりたった5文字の「ありがとう」ですべてが事足りるそんな世界っていいよね。なんかドリカムの未来予想図Ⅱみたいになってしまった。では、ぼくも最後の言葉はこれで締めさせてもらうことにしよう。読んでいただき「ありがとう」ございました。(おしまい)